但馬牛の歴史
古事記には「天日槍(あめのひぼこ)が朝鮮から牛を伴って日本に渡来し、但馬出石に住みついた」と記されています。
また、続日本書紀には、「但馬牛は、耕運、ばん用(車ひき)、食用に適する」とあり、「国牛十図」にも但馬牛の優れた体型、特徴、性質が記されるなど、但馬牛は古くから優秀牛としてその名が残っています。
戦国時代、豊臣秀吉が大阪城築城の際にも、優れた役能力に「1日士分」を与え誉め讃えたといわれています。
使役によって牛の体格はつくられました
資材の駄載運搬などに使われた牛は、必然的に背や腰が丈夫になり、肢蹄が強く、安定感のある体格となっていきました。
但馬牛は、農耕や車牛として利用されたこともあり、前躯(前半身)はよく発達しているが、後躯の発達がやや劣る比較的脚の長い体格となっていきました。
明治から現代へ
明治になって文明開化が起こり、人は牛肉を食すようになりました。
街では、牛鍋なるものも流行り始めました。明治30年代になって、但馬地域の各町に全国に先駆けて牛籍簿が作られました。
大正〜昭和初期…大正7年に「但馬牛血統登録組合」が設立され、登録業務を開始しました。
後に但馬牛体格審査基準を定め、これは昭和初期にかけて数回改正されましたが、但馬牛の改良を大きく前進させました。
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